はじめまして🌸
ご一読いただき感謝いたします。
1971年11月生まれの「まさき」、こと「しかないまさき」といいます(^-^)
東京都町田市薬師台に在住です。
近くにはりす園、四季彩の杜、薬師池などといったのどかなスポットがあり、ストレス発散(笑)したいときには最幸の幸せを得られる場所です(笑)
よかったらぜひお越しください^^
わたしは幼いときから根本的に明るい性格だと思います^^
基本的には世情にうといと言われる人間ですが。。(笑)
なので、うといなりの自己紹介となりますがよろしければお読みください。
生まれは北海道旭川市のはずれにある東鷹栖という小さな町です。
旭川市は盆地なので冬はかなり冷え、小学生時代に朝6時発表の気温がマイナス39.6度(だったと思う)のを覚えています。
ただ旭川市のはずれなので家の裏に建てていた物置小屋の温度計はマイナス40.1度でした。
昔、TVコマーシャルで凍ったバナナで釘をたたくというコマーシャルがありましたが、あれはマイナス20度のなかで凍らせたバナナなんだそうです。
なので、冬はかなり寒い土地柄というわけです。
一定の気温より寒い日は小学校も休校となり、広~い田んぼに積もり積もった真っ白な雪の平面に埋もれて友達と遊びまくっていましたね( *´艸`)
とにかく自然に溢れる環境で、愛する父、母、祖父母、などなどをはじめ多くの皆さま方に育まれ今に至ってます。
感謝です^^
性格は元気ハツラツでしたが小学4年の頃からいじめられました。
いま考えると、いじめられ始める前には力の弱い一定の同級生を無意識でひどく攻め立てていた自分がいましたね(汗)
ですから、ことの始まりは因果応報の学びだったのかもしれませんね。
ただ、わたしは小学校、中学校、高校と進学して学校や友人が変わってもその都度いじめられ続けられました(笑)
性格の悪い部分もあったのでしょうが、基本的に他人に対しての悪い性格ではなく自分に対して劣等感を強く持つ性格でした。
そのため当時の不良グループと呼ばれる輩には自信のないこき使える奴としてピックアップされていたようです。
そして、高校2年のときにわたしを構内売店への使いっ走りにしていた「番長」が退学となり、その時を起点に学生時代のいじめの人生は終了しました。長かったです。
小学4年頃からの長い期間精神的にしょげ続ける要素が多い日が続きましたが、幼い頃に築けた明るく元気ハツラツな性格、いじめられても友達となってくれた人たちのお陰で乗り越えて今を迎えます。
当時のそんな皆々さま方にはこの場ではありますが、深く御礼、感謝いたします。
ありがとうございました。
その後わたしは高卒での就職を選択し、東京に本社のあるガス会社で採用となり上京しました。
高校時代は好きなことをするという勢いのある時代ではなかったこともあり東京・横浜という都会の衝撃は大きかったようです(笑)
このときから私生活に若さとムチャさが爆発しました。
仕事のない日は渋谷、原宿を中心として遊びに費やしました。
お金が足りなかったため、当時横浜駅西口にあったPUB「マイウェイ」でアルバイトを始めました。
そのマイウェイは本職が終了したあとにほぼ毎日行きました。
要するに平日も毎日だいたい19時~2時くらいまでの深夜アルバイトを組んでいたわけです。
そして、当時はなかなか人気のある車だったスープラを無理やり購入し、カッコつけまくっての生活でした。購入したスープラもワイドボディのツインカムツインターボを無理買いしたため2000CCなのに3ナンバーという車となり見栄っ張り第一路線だったのがよく分かります(苦笑)
マイウェイではお店終了後に接客していた女性数人を各自宅まで送り届けてほしいというマスター指示があり、その結果睡眠に就くのはAM3時頃。。翌朝は当然本職の勤め先に出勤なためAM7時には出発です。。
疎かな人間でした(苦)💦💦
そして、、、、そんな生活は長くは続きませんでした。
19歳のとき大きな自動車事故を起こしてしまったのです。
脳挫傷、頭蓋骨骨折・陥没で意識不明の重体でした。
意識不明は約10日間続きました。
しかしツイていることがありました。
事故現場は横浜市旭区矢指町の中原街道で、運よく聖マリアンナ医大横浜西部病院がすぐ近くであったこと。
また、その大学病院は救急依頼が多く通常満院で救急車受け入れはほぼ不可、、、なのに収容OKが出たことは非常にラッキーなことで、受け入れができなければまず死亡してました。
その時の事故発生から約半年くらいの経緯を母から色々聞いてまとめてみると、医師コメントは次のような順だったようです。
【直後】死亡するでしょう
↓
【約10日後】バイタルサインは維持しましたが植物人間です
↓
【約15日後】左脳損傷なため右身体すべての半身不随は免れません
↓
【約1カ月後】社会性についていくのに同年齢層より努力が必要です
なので、本当に運よく助かったのですが数年後当時の担当医師に直接聞いてみると、救急車が受け入れられただけの運のツキだけではなかったようです。
交通事故は深夜に起こしたのですが、その日の昼に当時脳圧調整をするような医療機器が納品されていたり、真夜中なのに当時の脳神経外科教授がたまたま対応してくれていたりもしました。
また事故時に当時の彼女が助手席に搭乗していましたがムチ打ちだけの軽傷ですんだこと。もし私とその彼女の症状が反対だったとしたら、一生償わなければならなかったかもしれません。。。当たり前かもしれませんがその彼女にはフラれました(笑)
事故を起こした場所についても大きな橋の上であったため、落ちていれば何もかもが終わっていたかもしれませんが、橋げたを数本壊して車体は落ちずに止まったそうです。
そして、すべてのことが連なって設定されていた様に、この世にわが身を留めることができたのです。
いま幸せに包まれた人生環境を考えてみると、この事故はもともと人生の一助として設定されていたのかもしれませんね。
事故後は旭川市の実家に戻り一年ほど療養。
療養中も体が徐々にもと通り動くようになってきたため、祖父が開業している鉄工所で社会復帰のためリハビリ的に、なのに正社員扱いで社会保険に加入させていただき大変お世話をかけてしまいました。
こちらでも改めて、心より深く感謝・御礼申し上げます。
そんな月日が経ち社会復帰することになり、札幌、横浜、東京の優先順位で就職活動をしました。
そして、可能ならば我が身を助けた医療系企業に努めたいという方向で活動し、とある医薬品会社に勤めることになりました。
入社面接時には今までの経緯を加味し「病院回りではなく事務職になるかもしれません」と言われての採用でした(でも採用になったことが非っ常に嬉しかったです^^)。
しかし営業マン不足もあってかここでも運よくプロパー(MR:医薬情報担当者)の新薬部という営業課に配属されました!!
後々知ったことですが、大事故だったため前職のガス会社や治療した病院には通常な社員として扱えるかの念入りな電話確認をしたようです。
そして、その会社には約15年勤めました。
社会面だけでなく人間的ふれあいの勉強としても大変お世話になりました。
結論から言うと、やはり物覚えが悪い、ビジネスマン礼儀作法の体得遅れがある、意思疎通が上手にできない、あがり(緊張)まくる、etc.etc….と、会社見解では2~3年で克服できる新入社員レベルの習得に何年もかかりました。
そのため私より10年あとに入社してきた新入社員にも軽視され続ける毎日でした。
いま考えると、あの頃にはまだ疾患として存在していない高次脳機能障害という疾患であったかと思います。
結局、そのような疾患がまだ存在していなかったお陰で一般人扱いを受けることができました。
このことについても運がよかったとしか言いようがありませんが^^
その頃の自分にとっては一般人扱いという環境が無意識で大きな恐れ・劣等感となりましたが、明るさと元気のある性格であったためあまり表面には見せずに生活できていました。
そして、“一度死にかけたんだから自分ができる範囲でいいからやろう!!”という気持ちをベースにやっていたこともあり、営業実績としては10年連続100%達成(ツイていたので達成した年も多々ありましたが)という良い実績もでました^^
本当に営業というのは知識、技能だけではなく誠意をもって明るく、そして正直に対応することも結果として出るのだなぁとしみじみ感じました。
しかし見えないだけで随時存在していた恐れ・劣等感は大きな波紋を作りました。
知らないうちに私から浮き彫りになって周囲の人たちのほとんどからは「気に入らない存在」となっていたようです。
正確には10年くらい年上の上司たちの一部はその状態を把握していましたが、営業所所長たるトップの人からはできない奴というレッテルが生じ、人的には素知らぬ対応ばかりで冷たくなっていく環境でした。
会社の定例飲み会では皆さんの感情があらわに出ていました。
いっときの営業所所長からは叱咤や嘲笑う言葉ばかりでしたし、その次の所長からは社内定例飲み会翌日の遅刻(私が悪いのですが、、、(^^;))をしたときに朝一番で殴られメガネは吹っ飛びました。
別の酒の席では酔った勢いから後輩に殴られたこともありましたし、それよりもっと若い複数の後輩にも喧嘩を吹っ掛けるのと似た態度をとられたりしました。
オフレコのときに社員内陰口が漏れてきたときも辛かったです。
因みに、その後殴ってきた営業所長は常務とかに昇進したらしく、殴ってきた後輩は立派な支店長になったという噂を聞きました。
ですので冗談抜きで自殺したいとふと過ぎったことも何度かありました。
そんなときに支えてくれたのは家内です。
ありがとう。
何度言っても満たないですが、何度でも言います。
27歳のときに結婚し今現在24年の月日が流れますが、いまだに満たないです。
ありがとうございます。
また、父が出張で旭川から上京したときにわたしにくれた言葉があります。
明元素(めいげんそ)という言葉です
人生いつも自分に「明るく元気に素直」でいよう!という意味です。
父にはわたしの前述した状況はすべて隠していたので詳細を知る由もないのですが、きっとニュアンス的に心境を見て取ったのでしょうね。
一生お世話になる言葉です。
母からも随時子供への愛という形で多くの温かい言葉をもらえ、その都度エンプティ前の車にガソリンを入れたような根本的な力をいただきました。
どれだけ年齢を重ねようとも母の力は子供に対しては何らかの大きな果てしない糧となります。
ありがとうございます。
祖父、祖母、叔父、叔母、従兄弟、幼馴染、、、、本当にありがとうございました。
感謝いたします。
そのような多くの絶大なる励ましのお陰でその会社での一山を乗り越えることができました。
いまとなっては本当に当時の体験が大きな肥やしとなり、いじめてきた通常マイナスイメージしか持てなかった方々にも深く感謝しています。
その後、いろいろ考え転職をしました。
同じジャンルの医薬品会社への勤務となりました。
その転職先はネームバリューの上では大企業傘下の会社で、自分ながらよく採用になったなぁ・・・と思います。はっきり言って130%コネの力ですが(笑)
でも観点を変えれば先ほどの明元素の思いで生活していることが、周囲の人によい印象を与えて結果としてコネを作ってくれたのでしょう。
やはり自分はツイているんだとしか言えません^^
その後、その会社でも当然人間関係が生じますが、自分に合う人・合わない人を見てみると“合う人:合わない人=7:3”くらいでしょうか。
転職前は2:8くらいでしたので思いっきりありがたい方向へ急転換した感じです。
そしてその会社勤めを7年ほど経過したときコロナが世界を襲いました。
コロナ初期の頃は勤務先で扱っているとある医薬品がコロナに使用されることになったため、初回の緊急事態宣言で外出自粛のなか担当病院(長野県でした)までその医薬品を直接納品しました。
納品時の東京(会社)から長野までの新幹線、乗車車輛にはわたし一人でした。
歴史的な緊急事態宣言のときにそのような業務をしたことについては、それまでにない仕事のやりがいを感じました。
業務的にはまったく営業実績には繋がりませんがやりがいを感じるのです。
未知のコロナに対する当時の罹患者さんにとっては本当に命の手綱としてしがみつく医薬品であり、再度健康に戻れることに心の底から喜びを感じることが想像できたからでしょう。
そして、はっきり言って医薬品業界に存在するには少なすぎる知識しかなかったわたしは考えました。
このままでいいのだろうか?
同時に、自分が行ったことで人が喜ぶことは、自分も一番喜べると気づきました。
そのため大きく方向を変えました。
その会社を辞職しました。
そして、多くの人に直接会え、直接自分が行うことができ、終了後に直接満足の喜びをもらえるというおそうじ屋さんを自営業で始めていま現在に至ります。
わたしにとっては家族、血縁関係、職場関係、もろもろすべての人が大切な何かをいつも教えてくれています。
また、何故か仕事関係以外の分野でもわたしにとって価値の高い素敵な方々とのご縁がどんどんあって自分の笑顔がいつも桜満開の状態です。
何故かその状態になっているのです。
このことは一時だけを考えなければ誰でも気づけるような気がしますが。。
また、とある有名な方々からスピリチュアルに関するアドバイスはできると直接言われましたので、無償でスピリチュアリティカウンセラー(霊会がどうのこうのといったカウンセリングではありません)もやっています。
今まで何人かのカウンセラーをしてきましたが、喜んだり納得したりしたらやっぱりわたし自身も非常に嬉しいので続けてます^^
相談したいことがありましたら気軽にメール下さい。
最後に、誰にでもある「辛い」「悲しい」といった感情を元気にする「感じ」という曲を作りましたのでご紹介します。
いきものがかり、槇原敬之などなどの共演アーティスト歴のある方と作成したので、しっかりした曲になっていますよ。
元気を出したいときにお聴き下さい。
ギターソロ:https://youtu.be/
~あなたににすべての良きことが雪崩のごとく起きます~
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しかないまさき
東京都町田市在住
daijoubu.all@gmail.com
LINE ID:smymyt
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